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第一渡辺文録

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カテゴリー「海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~」の記事一覧

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海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その四 板貝浜より神宮沢(二)

つづいて神宮沢第二隧道です。

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この隧道も昭和55年に改修を受けて、現在のコンクリート2車線規格になっています。隧道の延長そのものは短いものですが、その中で陸側に沿ってカーブを描き、その先が上り勾配となっています。

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板貝側、神宮沢第一隧道を振り返ると、その線形の曲り方が分かるでしょう。

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線形の異様さを示している証拠が隧道の外にあります。この僅かに突き出た岩盤の正体です。

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元々大正時代の隧道は、この場所、岩山が突き出た部分だけを刳り貫いたものでした。昭和44年の車道改修時でも、自動車が一台通れるだけの拡幅しか受けていません。そして、一般国道昇格後の昭和55年に、「そのまま」コンクリート巻2車線規格になったことが伺えます。

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現代の形としての隧道ですが、大正初期の最初の姿をここに残している例でもあります。線形の異様さや勾配の上下連続という様相が、そのまま拡幅した道であることの証拠ともなっているのでしょうか。

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すぐ上部に、コンクリート吹付の岩肌が聳え、隧道には落石除けの覆道が延長されています。
非常に短い隧道ですが、かつての道の姿が色濃く残されている場所でもあります。

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ここから登りを進むと、その先には神宮沢第三隧道があります。

その五へ

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海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その三 板貝浜より神宮沢(一)

それでは現在の道を進みます。

板貝より最初の隧道には神宮沢(じんぐうさわ)という名称が付いており、第一、第二、第三と三本の隧道を以て道が貫いています。具体的な沢があるわけではないのですが、この先深浦の入り江までの間にある場所と考えていいでしょう。

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板貝の浜より最初に見えるのが神宮沢第一隧道です。

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このように、板貝浜の先はヘツリ渡りの道は施されず、前記の板貝峠を越えるか舟で海を伝うかの道でした。

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現在のコンクリート巻き2車線規格の隧道は、国道昇格後の昭和54年に改修されたものです。「海岸無雪道路」の建設に伴い昭和43年に拡幅を受けています。

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大正初期の隧道開鑿、昭和43年の車道改修時とほぼ同じ状態で改修されたもので、その当時「暗く水溜りのある中を棒を頼りに進んだ」とも言われる隧道がこの先十本も続いていたのです。

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2車線化に伴うカーブの緩和によって、無理な線形が続きます。第一隧道を抜けた先には神宮沢第二隧道がすぐ見えますが、隧道内で下り勾配となって手前で急カーブとなっています。最初の道はもっと極端なものだったのでしょう。

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第一隧道を抜けました。板貝側の口が見えない位置に出口(笹川方)があります。大正期の隧道もこのようにカーブを描いてこの場所へ繋いでいたのでしょう。それをそのまま昭和43年の拡幅で車道化し、現在の国道用隧道として利用したことが分かります。

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この場所にしか入口出口を設けることができなかったことが、上部の断崖の様子で見て取れます。僅かな平坦箇所を細かく繋いで、隧道を開鑿していった歴史がここにあります。

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海側の様子。完全な断崖が続いています。

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神宮沢第一隧道を抜けて僅かな明かりを見ると、直ぐに神宮沢第二隧道が現れます。


その四へ

海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その一へ戻る

海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その二 道路としての歴史

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現在の海府浜通り・一般国道345号(カシミール3Dにて作成)

海府浜通りの道が「車輪の付いた乗り物を通す道路」として歴史を刻んだのが明治30年前後の事となります。古代より海上交通が発達していた海府浦でも、明治期に入るとそれまでの和船から近代的蒸気船の貨客船が寄港するようになりました。有名なものでは、越佐汽船会社(現在の佐渡汽船の前身のひとつにあたる)による新潟酒田航路がありました。その中で寝屋、脇川、柏尾が主な停舩場として利用された記録があり、同時に近隣の道に隧道を開鑿し、港と近隣集落とを結ぶ「道路」が敷設されていったようです。まだ「縣道」として指定をされた時代ではなく、具体的な記録には残されていないものですが、おそらく村単位の事業だけではなく有力者の資金による開削もあったのでしょう。似た例でほぼ同時期にタカヘツリの開削があります。
※明治の隧道については各々別の機会に取り上げたいと思います。

次の時代、大正期に入るとようやく現在の道路、一般国道345号の原型が造られることになります。今回の項で取り上げるのがこの大正期の道路の事になります。前頁で取り上げた十本の隧道の他にも、あと七本、計十七本の隧道がほんの数年(大正2年~6年)の間に開削されている記録がありました。この隧道がどのような経緯で開鑿されていったかは今のところ定かではありません。山越え道を平坦な陸路にするという目的で開鑿されたものですが、これらについてはほぼ人道隧道であったことが寸法の記録から読み取れます。高さ1.7m,幅員1mに満たないものが殆どであったといい、荷車を通した規格であった明治期に港とを結んだ隧道とは大きく異なるものでした。
この頃には羽越線の建設が決定していますが、先に道路の方が開通しているため全般的に山側のルートを通っています。当時でいう最先端の技術で建設されたものといい、鉄道特有の直線的な線が貫き現在に至っています。

大正13年に開通した羽越線と同様に、海岸線ぎりぎりの場所に開通した道路も、現在に至るまで殆ど同じ場所にあり、大きくショートカットを図った新設バイパスが無いことが特徴となります。
大正12年に初めて「新潟縣道府屋瀬波線」として指定された後、昭和50年の一般国道345号に昇格するまで一度だけ大きな改良を受けていますが、これが「海岸無雪道路」と呼ばれた計画の事で、昭和35年頃より新潟県によって計画された海岸線伝いの路線として海府浜通りの道が指定されました。

その直後、昭和39年(1964)に直ぐ近隣の粟島付近を震源とする新潟地震が発生します。大きな被害は無かったものの、道路の補修復興の目的もあったのでしょう、ようやく昭和44年に自動車の通行可能な道路が開通することとなりました。昭和39年から44年までの間に大きな改修を受けていることになります。つまり昭和44年までは殆ど改良されることなく大正期の道が存在していた、ということにもなります。それからは早く、国道昇格を挟んで現在のコンクリート巻き2車線の道路として二次改良を受けています。

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板貝の浜と護岸を挟んで現在の国道。この先に見える神宮沢第一隧道からが大正期の道となります。それではここから先へ進みます。

その三へ

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