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第一渡辺文録

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カテゴリー「蒲萄峠を渡る 第三部 明神新道篇」の記事一覧

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蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その六 新道と耕地との位置関係

「マルクラ」の小字を過ぎて、なお新道は明神川が作り出すの谷の中腹を進みます。


明治後半から大正時代にかけて、全国の主要街道約2km置きに設置された水準点。この場所は現在では179.7mを指しています。


条件のよい場所、なだらかな土地は大沢村の耕地として今も利用されています。


明治の新道開鑿以前からこの場所は大沢村の耕地だったのでしょう。荷車道の新道は、平坦な条件の良い場所を繋いで道が開鑿されていったこともあり、結果的に耕地の維持継続にも好都合となったのかもしれません。階段状に続く耕地、この谷の下に現国道7号が通っています。


道の位置が耕地の上段ということもあり、この付近は山裾を削り取った箇所が続いています。


程度良くの見る谷積の石垣法面。大正時代の改修でしょうか、「大正国道10号」としての形跡も所々に見られます。


少しでも開けた場所にはこのように耕地が見られます。今でこそ山中の不便な場所ですが、新道の存在は今もこの耕地を現役にさせているのかもしれません。


地形に沿った形で山裾の中腹を繋ぐ道。殆ど高低差もなく新道は続きます。


明神川はこの平坦地の谷底で日本海へ向けて流れます。蒲萄川の支流である明神川、そのさらに支流となる「ミズガミ沢」の谷を上ることになります。ここから次の峠にあたる「大毎峠」を目指し山中を進みます。


カシミール3D+電子国土より

その七へ

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蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その五 新道の小字・マルクラ

マルクラ(丸倉)という地名が途中にあります。現在の地形図では、マルクラ沢という地名のみが残っていますが、かつてこの場所に小字としての集落があった時期がありました。
『部落の由来を訪ねて』(山北町郷土史研究会編・昭和51年)には、明治20年代の新道開削以降に馬曳の為の馬宿を新道沿いで営んでいたという記載があります。


カシミール3D+電子国土より
小さな沢ですが、マルクラの地名が記載されています。


大正5年発行五万分の一「蒲萄峠」より
水準点の手前に、家屋の地図記号がみられます。これが丸倉の字にあたるのでしょうか。大沢の本村から徒小径が新道へと続いています。


ここでマルクラ沢を渡ります。沢自体は小さなもので、橋が架かっているほどのものではありません。


コンクリート製の暗渠となっていました。これは昭和初期の改良での竣功でしょうか、コンクリートの質も古さを感じさせます。


暗渠の全景。小さな沢を跨ぐものですが、勾配を平坦にするための土盛りの厚さが特徴的に映ります。


沢を渡ると、地形図にもあるように大きな岩山の崖が聳えています。北西側を向いていることもあり、残雪が特に目立っていました。


路面の下部は丁寧なコンクリート製の法面が施行されています。マルクラ沢の暗渠と同時期の施行なのでしょうか。


地形図上では、岩山をすぎてすぐの場所に家屋があったようですが、その名残を見つけました。


曲がり角の沢筋にある水場。今もなおビニールパイプで人為的に集水さてれいる点や置かれた湯呑があることからも、生きている場所なのです。この場所が古くから水を得やすい場所=集落を立地させる条件が整った場所であったのでしょう。

 
すぐにやや開けた場所にたどり着きました。おそらくこの周辺が「丸倉」であった場所です。
『部落の由来を訪ねて』には、大正13年に羽越線が開通して以降馬宿も急速に廃れ、丸倉からも家屋が無くなったと記載があります。

大沢の村もまた、江戸期の街道整備、明治期の新道開鑿、大正期の鉄道開通と、宿場の宿命ともいうべき時代の変遷に翻弄されてきた歴史があるようです。

その六へ

蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その一へ戻る



蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その四 大沢村の新道

蒲萄村を過ぎ、この境界からが大沢村となります。

昭和41年の現7号開通後旧道となった蒲萄峠の新道は、その後当時の朝日村の村道として維持管理がされていたこともあり、旧道化して暫く経ってからでしょうかアスファルト舗装が行政界であるこの場所まで施行されていました。


この先が大沢村となります。現在の大沢村は、江戸時代前期に街道が整備されて以降に移村した、旧出羽街道庄内通・大沢峠の筋に宿場としての本村がありますが、かつてはこの明神川沿いの平坦地にあったとされています。
明治新道の筋は、街道が整備されていなかった時代に村々を繋いでいた古道の場所に、改めて道が敷設されたことになるのでしょか。いくつもの小字があったようです。


舗装されていないこともあり、明治道の雰囲気が残る道が続いています。


路面は堅く踏み固められた砂利が平坦に敷き詰められています。土の泥濘や轍が無いことも、この場所がかつての主要国道であったことを今も示しているのでしょうか。道としての劣化荒廃が見られないことも特徴的です。


所々には新道時代の法面が顔を出しています。苔生した古い石積みの路肩がありました。これは大正期の国道指定(大正国道10号)での施工でしょうか。


屈折部の広い敷地もよく残されています。


明神川の谷を下らずに、中腹の位置に勾配を持たずに進む場所へと新道は敷設されてゆきました。


そのために、宿場としての整備の為に移村した出羽街道大沢宿も、「宿場」としての機能が明治新道の開鑿によって急速に薄れたということです。

街道筋から離れた場所に開削された明治新道。その後新道沿いに小字としての集落がいくつか存在していた時期がありました。

その五へ

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