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第一渡辺文録

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カテゴリー「蒲萄峠を渡る 第三部 明神新道篇」の記事一覧

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蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その三 新道と現7号が通る谷

明神川の谷筋に沿って明治26年に切り開かれた新道は、ようやく深い谷からやや開けた場所へとたどり着きます。


明神川が作り出す平坦地と耕地が見え始めました。その先にある構造物は、現道である7号朝日トンネル(L=938m)のスノーシェッド部になります。


ちょうど谷が開ける場所にトンネルの入口が位置しています。


朝日トンネル(北側)。昭和41年に開通した現7号のルートで、蒲萄峠を迂回し、蒲萄川の本流と支流である明神川との間をストレートに穿つ位置に建設されています。


昭和44年発行五万分の一「勝木」より
旧出羽街道庄内通りの筋を踏襲する蒲萄峠、その先に新たに開鑿された明神川沿いの新道によって山を迂回した道は、この場所で現在の国道7号と位置が同じ場所になります。


カシミール3Dより
北側より南側を向いた角度で描写をしてみましたが、明治新道の蒲萄峠が勾配の緩い場所を、現道の7号が一気に二つの谷を繋いでいることが分かります。
(一級国道7号改良が蒲萄川沿いをそのまま下り海側へ出るルートが当初検討されていました。この件は改めて記事にしたいと思います)


狭い谷筋の僅かな平坦地を直線状に進む現在の7号。明治新道はその一段上の位置を地形に沿って北進することになります。


新道と現道とを連絡する道が敷設されていますが、だいぶ高低差が出てきました。この合流点の場所は標高162mですが、現7号は明神川の谷の標高に合わせるようにさらに下り勾配が続いています。


20m近い標高差でしょうか。明治新道がいかに「勾配を抑える」場所に開削されていったかがこういった場所にも表れてきます。



ここで新道と連絡路が合流します。その先に視界が開ける場所がありました。


眼下の谷筋を下りながら通る現7号が見えます。新道の荷車道はこの標高を保ちつつ、山裾の中腹を大毎峠へ向かって進みます。

その四へ

蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その一へ戻る



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蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その二 明神川沿いを進む

それでは矢葺明神の街道分岐から、明神川の谷沿いに足を向けましょう。
新道開鑿までは、おそらく徒歩道としては存在していたものと思いますが、荷車を通すまでのものでは無かったのでしょう。明神川の下刻作用によって作り出されたV字谷の中腹を削り取った道がしばらく続きます。


植林された杉林が川縁に連なっています。


北進する明神川の流路に沿って、道は川と同じくして多少の蛇行を描きながら、勾配の無い平坦な道筋を辿ります。


平坦地には植林されて間もない杉林もありました。土地の形状を見る限りでは、元は水稲耕地であったのでしょうか。大正5年の地形図には、確かに地図記号もありました。


根曲りの見られる杉林を直線的に進む新道。


その眼下を明神川は流れます。


所々で視界が開ける箇所もありますが、山深い谷筋の中腹に道が施されていきました。


水準点は明治から大正期にかけて、全国の主要道沿いに敷設されていったものですが、この新道沿いにも一定の間隔で設置されています。明治44年の測量時のものでしょうか、219.48mという標高が示されています。(現在の地形図では219.5mとなっています)


小さな沢を跨ぐ場所に石積みの暗渠がありました。特にモルタルやコンクリートでの目地塞ぎが無いことから、これは明治新道として開鑿された当時のものかどうかは解りませんが、古くから道を支えていた土木構造物であることには違いありません。

その三へ

蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その一へ戻る





蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その一 峠を越えない新道

蒲萄越えは明神川沿いの新道へと入ります。
(蒲萄峠を渡る 第二部 蒲萄峠篇の続き)

新潟縣道・三等縣道鼠ヶ關線として明治26年に開通となった蒲萄越え新道のうち、旧出羽街道・庄内通りとは別のルートを通る部分が、蒲萄川水系明神川の谷筋に開鑿されています。

 
大正5年発行五万分の一「蒲萄峠」より
明神岩の分岐より山越えをして大澤の宿へ続くのが街道である出羽街道の筋となりますが、二重線で描かれた「新道」は明神川の谷筋をそのまま進む道筋となっています。



カシミール3Dにて描写

奥に見える平坦な場所は、大毎・中村の宿を構成する勝木川上流(黒川という)の扇状地です。
手前、明神岩の分岐点からは水系でいうと、蒲萄川水系と勝木川水系との分水界(大毎峠)があるのみなのですが、街道は明神川の谷を進まず、山越えになる道を選び、大沢峠の山越えを通って大澤の宿を経由し、大毎峠を越える道筋となっていました。

徒歩道の街道としてはむしろ容易に進める道筋であり、峠ではない明神川の川筋は街道とするには谷が深い等の難点があったのでしょうか。

※旧出羽街道大沢峠については後日取り上げたいと思います。


カシミール3Dを見る限りでも、明神川の谷筋は深いことが分かりますが、峠ではないことから勾配を気にせずに新道を敷設できるメリットがあったのでしょう。

蒲萄越えの中でも街道と新道の位置がまったく別となる区間となります。この明神川の谷は途中で現国道7号も合流する筋となっていますが、新道とは標高という意味での位置関係がやや異なる場所を通っています。


それでは、実際に「新道」と呼ばれていた明神川の谷筋を進みます。

その二へ 





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