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第一渡辺文録

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カテゴリー「蒲萄峠を渡る 第四部 大沢峠篇」の記事一覧

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蒲萄峠を渡る 第三部明神新道篇/第四部大沢峠篇 考察

矢葺明神・漆山神社の明神岩分岐(明神新道篇/大沢峠篇)より、明治新道と旧出羽街道庄内通大沢峠との二つの経路を経て、真佳木橋で再び合流をしました。


電子国土+カシミール3Dに加筆
赤い線が明治新道、青い線が出羽街道庄内通大沢峠になります。

江戸幕府の成立以降、参勤交代制が確立されるまでに秋田藩佐竹公が大沢峠を街道として整備をしていますが、それ以前の道がどの場所を通っていたのかははっきりしていません。大沢の本村が現在の位置になったのが、大沢峠ルートの街道が確立してからとのことのようです。

『部落の由来を訪ねて』にも、「明神川の流域にヤシキという字が残っているが、その辺に昔大沢村があったといわれている」という記載があります。
この場所は、おそらく現在の7号が通る明神川沿いの谷付近の平坦地(段丘面)であったと思われます。

つまり、出羽街道成立以前の道は、明治新道(明神川沿いの谷)ルートが道筋であった可能性が高い、という推測に繋がります。

その殆どが徒歩若しくはせいぜい馬曳の交通であった江戸時代に於いては、多少の登り下りがあったとしてもわざわざ山越えをするルートのほうが道を付けやすかったのかもしれません。むしろ谷の深い、浸食による崩落の危険性もある明神川の川筋の道を避けた、とも考えられます。

結果的に出羽街道のルートは庄内藩や本荘藩、秋田藩など日本海側諸藩の参勤交代路とはなりませんでした。そのために、佐竹公の改良以上の改良はおこなわれず出羽三山への参詣道(修行路)としての通行が主であったようです。南北の移動に関しては海府浜通りや小廻船での海路の影響もあります。川村瑞賢以降の航海技術は相当のものがあったとされています。

明治16年に、新潟縣議会に於いて県内主要道路の改修が計画され、明治25~26年にかけて荷車道としての明治新道(3等縣道鼠ヶ関線)が蒲萄峠に完成しています。大沢峠については、勾配を避ける為に峠ではない明神川沿いの開鑿となりましたが、これはおそらく出羽街道成立以前の道筋を辿るものが復活した形なのかもしれません。

この新道開鑿によって、大沢村は街道の宿という機能が失われるわけですが、街道沿いの商売を新道沿いでも商売をするようになりました。(丸倉や海田の字)

専ら陸路での交通は乏しいもので、元々発達していた海路の存在(明治期には定期蒸気船の就航が始まる)や、大正13年の羽越線全通は大きな南北の移動にとって影響力が強く、結果として街道筋、道路筋の交通はさほど隆盛することは無かったようです。

今でこそ趣味としての街道歩きの対象として、出羽街道大沢峠は当時の趣を残す恰好の存在として「遊歩道化」されていますが、これは結果として交通が少なかったために大きな改修も無く残った、という産物なのかもしれません。

一方で明神川沿いの新道は開鑿以降、大正9年の國道10号指定、昭和27年の一級国道7号指定後昭和41年という近年まで日本海側唯一の車道でした。これも、羽越線という大きな影響力を持つ交通手段があったために、大きな改良も無く「明治新道らしさ」を今に残しています。


表面的な部分ではありますが、大沢村の変遷は「集落は時代によって移動するものである」を地で行く例なのでしょうか。交通は時代によって変遷進化してゆきますが、付帯する集落、特に街道の宿場も同じような変遷を辿っていることが非常に興味深いものです。

道の歴史変遷も集落の変遷も同じように時代時代で複数のパターンが存在する良い例なのでしょう。一つではないということです。

明神新道篇/大沢峠篇 了

大毎峠篇に続く
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蒲萄峠を渡る 大沢峠篇 その十二 明治新道との合流・分岐点

大沢川の上流部に設けられた出羽街道庄内通大沢宿を背にして、山裾を下ってゆきます。


大沢川が作り出す沖積地の耕地が広がりますが、集落はそのかなり上段に設けられているのがわかります。街道の宿として人為的に設けられた、自然発生的集落ではなかったことがここからも見ることが出来ます。


おもいのほか下り勾配が続いています。峠の入口に設けられた山中の窪地である大沢宿がいかに特異な立地であったかということです。下段の耕地との高低差もこの場所ではさほど縮まってはいません。


進むこと500m、標高差が50mほどでしょうか、ようやく明治新道との合流・分岐点である真佳木橋に辿り着きました。


正面の橋が町道として昭和60年に新設架橋された真佳木橋、左が明治新道のルート、その後の一級国道7号として架橋された真佳木橋です。


元は旧橋を渡ってから合流分岐であったようです。


この先が明治新道として明神岩分岐まで続いています。


現道と旧国道との違い。


真佳木橋で合流した街道と明治新道。この先大毎峠を経て大毎・中村へと再び街道と新道が同じ筋を辿ります。

 
昭和44年発行1/50,000 勝木より

明神新道/大沢峠 考察の部へ

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蒲萄峠を渡る 大沢峠篇 その十一 大沢宿の本村

出羽街道庄内通・大沢宿へ辿り着きました。
元々はこの位置に村があったわけではなく、街道として成立した江戸時代前期に宿として本村が移動したようです。


カシミール3D+電子国土より

幾筋もある蒲萄川の支流、明神川水系のミズガミ沢上流部、大沢川のスリバチ状に窪んだ奥まった場所に、峠の入口として大沢宿が設定されたようです。


いままで見られなかった庚申様が村の入口にありました。


振り返って大沢峠の入口部。大沢川の小さな流れが谷を作り出しています。


窪地の斜面に作られた村。水平にするための石積みがみられるのも特徴でしょうか。


三山信仰の参詣道。湯殿山碑がありますが、月山・羽黒山も一つの碑に併記されたものはこの近隣では割と少ない部類のようです。


下り勾配斜面に作られた宿場である大沢村。本村は小さな規模ですが、村としては耕地には恵まれた山中の集落でした。


谷筋に作られた大沢川の作り出す耕地を見ながら、山裾の道をこの先の真佳木橋合流点まで下ります。

その十二へ

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