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第一渡辺文録

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カテゴリー「芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用」の記事一覧

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芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用 その十二 考察篇

芦谷セットの構造物が、ほぼそのままの状態で現在に「国道」として至っている理由は、おそらく現在の感覚であればありえないものなのでしょう。その訳は、鉄道の歴史、道路の歴史、海運の歴史などすべての交通事情を鑑みる必要があります。


平成12年発行1/25,000 「勝木」より
地形図上では、国道の南行(新潟方面)のみ、セット部が「雪覆い等」の記号で描かれ区別されています。



1954-10  KK 木下組の刻印がありました。
芦谷セットの構造物は昭和29年~35年にかけて建設されたものとして考えてよいでしょう。
この頃に羽越線の改修が行われていますが、その一環としてのセット建設であったということです。


地形的な制約の上、鉄道用地を道路用地として転用した一例である芦谷セット。
狭小な土地に鉄路と道路両方を通すための策ではありましたが、昭和30年代までは道路そのものが無かった場所です。

羽越線は当初から海岸線に沿ったルートで建設が計画されていました。結果的に大正13年の開通と幹線の中では全通が遅れた部類に入りますが、貨物輸送目的が主であったこともあり、当時の最新技術で建設が進んだ路線は最大勾配1/100(10‰)という平坦な路線が敷かれています。

羽越地方を南北に縦貫する道路・現一般国道7号は旧出羽街道の筋に沿った蒲萄山塊の東、蒲萄峠経由の山ルート(内海府)で明治26年に「明治新道」として開鑿され現在に至っています。明治期に於ける海府浦の道はその殆どが山越えヘツリ渡りを繰り返す徒歩道でしたが、ここに高規格な「鉄路」が敷かれることは、その後の道路そのものの存在の必要性を暫く感じさせないという効果も生み出しています。

河村瑞賢の西廻航路制定以後、江戸時代の海路発達は北前舟などに代表される長距離の和帆船以外にも、短距離を結ぶ小廻舟の存在が大きく、海府には多くの廻船問屋が繁栄した時代があります。

明治に入り、気候や波浪の影響を受けやすい和船は近代的蒸気船へと転換し、海運は最盛期を迎えます。柏崎-佐渡-新潟-酒田-小樽などの航路を持つ越佐汽船(現在の佐渡汽船の前身の一つ)
が特に著名で、4月から11月に掛けて運行した新潟酒田航路は、海府の各港を停舩場として交通物資の移動に大きく貢献しました。

そこに羽越線が開通することにより、一気に海運は廃れることとなります。大きな流れでの物流はほぼすべて鉄道に移ることにより、鉄道以外の手段が必用ではなくなった、ということでしょう。陸路や海路は各村々との連絡のみできればよいわけですので、必要以上の改良がいらなくなったと考えるのがよいのかもしれません。並行して通る国道7号の存在もあって、海府浦浜通り・現在の一般国道345号に自動車が通れるだけの道が開通したのが、鳥越隧道の開削を含む昭和44年の海岸道路開通です。

地形的制約に関しては羽越線が早々に克服した形となりますが、道路に関しては並行する羽越線の存在が、海岸線と山塊とに挟まれた限られた土地に道を敷設することに対して非常にネックであったのかもしれません。そのなかで、羽越線複線化による新線建設の計画と道路建設に伴う旧線敷の道路転用は理にかなったものでした。

おそらく国内でも例の少ない、鉄道構造物をそのままの状態で転用した廃線跡国道になると思われます。果たして昭和40年前後の鉄路と道路との関係はどのようなものであったかはわかりませんが、この芦谷セットからは時代背景や地形条件、交通事情等様々な地域の姿を見ることができるのでしょう。


(了)

芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用 その一へ戻る

以下付録。

芦谷セット部の動画を撮影しましたのでどうぞ。

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芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用 その十一 旧線と新線との合流点と国道

沢筋(サワジリ沢)で山塊が切られる箇所で、複線の新線、新芦谷隧道の新津方入口があります。


この沢を渡ってすぐ、南側の場所が旧線と新線との分岐点でした。


道路は線路と並行になる場所で曲がっていますが、元は鉄路が地形に沿って直進しているものでした。道の存在は、海岸線との僅かな箇所に徒歩路があるのみです。

道路の橋梁は「いなこじばし」という名称になっていますが、この箇所の小字になるようです。


道路橋の山側に、かつての旧線跡の橋台が残っています。


現在はケーブルが渡されていますが、これは鉄道用のものなのでしょうか。


竣功昭和44年4月。2車線規格で施工された橋は、海岸道路建設によるもののようです。この当時は歩道や路側帯の概念が無かったのでしょう。ぎりぎりの幅員(5.5M)となっています。この先、羽越線と日本海とに挟まれた箇所に護岸と共に施行された道路は、歩道のない狭小な2車線が蒲萄川まで続きます。


竣功当時の路線名は、主要地方道村上温海線。


芦谷セット側を向くと、そこには国道標識が存在します。旧線跡が国道である証拠でもあります。


当初は県道(主要地方道)であった道は、その後すぐ(昭和49年決定、50年指定)に国道昇格を経て現在に至っています。


その十二 考察篇へ

芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用 その一へ戻る

芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用 その十 鉄路の跡と道路

「芦谷セット」の構造を抜け、その先は山塊と鉄路とが並行する形で新津方は芦谷の集落を経由し蒲萄川の谷・越後寒川駅方へ続いています。


2車線の道路のうち、山側の路線が旧線跡そのままの位置となっています。海側(北行き)の路線が膨らんでいるのも、のちに道路として海岸を護岸で拡幅した部分に当たります。


道路の上下線が合流するポイントの擁壁には、後に増設されたコンクリートの下部に大正13年当初の石積擁壁が見えます。これも道路ではなく鉄道用地であったことを示すものです。


上下線の合流分岐点より。こちらも秋田方(北側)と同様、指定方向外進行禁止の標識が表示され、その先の短い延長の㐧二芦谷セットが印象的なシルエットで浮かんで見えます。


羽越線建設時に山肌を削り取り、大正13年のコンクリートと岩石で保護した古い法面が残ります。これは現在の道路の法面としても生きています。


㐧二芦谷セットから山肌を沿うように建設された旧線の位置。この角度から見る限り、その当時の道路用地が殆ど無かったことが伺えます。


小さな沢の谷口で、複線規格の新線である新芦谷隧道の入口/出口がありますが、旧線跡はこの沢を渡ってすぐの場所で合流分岐をしていました。


実際に法面と現道路とは平行な位置関係ではなく、手前側、山側の藪になっている部分に旧線が敷かれています。

その十一へ

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