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第一渡辺文録

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カテゴリー「松陰ノ隧道ニ想フ」の記事一覧

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松陰ノ隧道ニ想フ その八 三つの松陰、今も現役の㐧一隧道

松陰とは寒川の村から見ると、狐崎の先にある小さな沢(倉ノ沢)から脇川の村の入口までを指すようだ。狭義では脇川村の入口部だけなのだろう、「松陰ヘツリ」という地名も江戸時代の地図に残されている(後述)。


現在の松陰の隧道は一箇所である。

(カシミール3Dより)


「狐崎」より南、鳥越山までが国指定名勝天然記念物『笹川流』である。その先に小さな沢を渡ると道は隧道で抜けることになる。



松陰㐧一隧道。㐧一とあるが現在はこの一箇所だ。


昭和50年の一般国道345号指定に合わせて、この松陰㐧一隧道を含む箇所が改良されている。山側にはそれまでの旧道が残っているが、倉ノ沢に掛かるこの橋は昭和28年頃のものだろうか、この頃にも松陰の隧道が改修された記録が『道路トンネル大鑑』に記されている。大正13年の羽越線はさらに山側を北(左)から寒川隧道・狐崎隧道と抜けている。


旧道の流れの位置に比較的大きめの地蔵尊があった。


海府浜通りの時代は山越えをしている。その頃の地蔵尊だろう、難所の入口に地蔵あり。


やや平坦な場所。ここに耕地があるのだが、街道はここから山越えをしている。
道路の隧道は明治時代(かそれより古いか)なので、実は鉄路がいちばん新しい道になるのである。


正確な年代は掴みきれていないが、明治時代から、新ルートになることなく改修拡幅によって同じ場所に隧道がある「国道隧道」は珍しい存在でもある。当初から脇川港を結ぶ道としてそこそこの大きさがあったこと、一方でその後の自動車社会とは暫く無縁だったことによるものだろう。
特に思い入れは無いのだけれども、おそらく自分がもっとも潜っている隧道はこの㐧一隧道だろう。他愛無い無機な隧道だが、もしかしたら上記のように国内でも稀有な存在なのかもしれない。


そして松陰のもう二つの隧道。これが「松陰ヘツリ」の隧道である。



その九へ

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松陰ノ隧道ニ想フ その七 越佐汽船度津丸による酒田新潟航路の停泊

江戸時代における海運の発展により、脇川湊は脇川港として海上交通の拠点となるわけだが、明治22年の町村制に於いては下海府村の村役場所在地として行政としての拠点性も得ることとなる。

各浦々を結ぶ小廻舟の便(浦=砂浜に直接乗り上げることが可能)が中心であったが、明治18年に柏崎で創業された越佐汽船会社(現在の佐渡汽船の前身の前身のひとつ)が運行した、近代蒸気船による酒田新潟航路が交通面での重要なポイントとなっている。

明治42年の「岩舩郡案内」には脇川港の項があり、
『脇川に在り定期船度津丸の寄港地なり、下海府村を後方地域とす』

度津丸(わたつまる)とは越佐汽船が運行した蒸気船であり、第〇〇號と複数あったようで他に新潟小樽航路等にも就航している。そのうち一航路である酒田新潟便が、4月~11月に1日1往復し、途中脇川港に立ち寄る形態を取っていたようだ。
(度津とは、佐渡国一宮・度津神社から命名されたものだろうか)


かつての脇川湊は入り江の内、砂浜が広がる文字通り「浦」であったが、明治以降幾度の改修により現在に漁港として至る。


港の入口にある岩礁は波浪を遮るのに適した良い位置にある。この場所に最初の防波堤が明治25年、金80円で完成という記録が残っている。

度津丸の寄港(実際には湊からは艀で停泊している度津丸に乗りこむ)は明治34年から開始されたとあるのだが、度津丸を停泊させるのに港湾や道の改修をしたのか、度津丸が停泊するようになって、港への道の改修がなされたのかは正確な記録にたどり着けていない。
度津丸についての記録は乏しく、具体的な事があまりわかっていないのが現状で、大正13年の羽越線開通によって沿岸の海運が急速に廃れたという事だけが記されている。(海上交通に関する事については後日課題としたい)

この度津丸の記録によって推測できることは、松陰の隧道はおそらく明治30年前後から存在するのではないか、ということだ。勿論もっと古いもの(明治初期・江戸時代・幕末)であった可能性もある。


その八へ

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松陰ノ隧道ニ想フ その六 脇川村の立地と移動

学生時代の論文で集落立地について触れたのだが、寒川村の本村が蒲萄川の谷底沖積地を後背として、段丘面に広がりを持つ農耕中心の村であるのに対して、脇川村は海岸線とほぼ平行にわずかな海成段丘面(標高5mほど)に列村形態で立地している点が異なる。
農村と漁村という対称の性格なのだが、脇川村が当初から漁村であったわけではない。

というのも、脇川村は江戸時代前期頃に現在の位置へ移動している。


(カシミール3Dにて作図加筆)

現在の集落の位置の南に「二級河川脇川」が流れているのだが、かつては河口から少し入った段丘面の平坦地に集落があった。この河川は谷底沖積地をほとんど持たないのが特徴で、流域の定住人口も0であり、段丘面含め平坦地のそのほとんどが耕地としての土地利用となっている。

現在よりもずっと戸数は少なかったとされる脇川村であるが、「西廻り航路」に代表されるように江戸時代中期以降の海上交通の発達、各地の浦との交易が始まると、交通上便利である浦・入り江を持つ現在の場所に移転しており、ここで一農村であった脇川村が一躍発展する海上交通の拠点を手に入れたのである。

寒川村は砂丘と遠浅の海浜が続き、湊としては適していなかったことも、海路交通の拠点として脇川湊が「外港」としての位置づけだったのではないだろうか。寒川村と脇川村との補完関係でもあり、その両村を結ぶのが松陰であった。


慶長2年(1597年)の瀬波郡絵図より。
「脇河村」と「かん河村」
脇川村はこの頃は現在の場所ではなく、「脇川」の流域にある段丘上に村があった時期の絵図ではないかと思われるのだが、特に海路上の交通について描かれてはいない。
松陰については山越えの道が描かれている。絵図にもあるように、ずっと寒川村のほうが大きな集落である。


その七へ

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