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第一渡辺文録

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カテゴリー「蒲萄峠を渡る 第五部 大毎峠篇」の記事一覧

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蒲萄峠を渡る 第五部 大毎峠篇 その十三 考察

江戸時代の旧街道より明治新道を経て現在の一般国道7号まで、南北を結ぶ道は海岸線と並行せず一旦山中へ入り蒲萄山塊東麓の蒲萄越えをするルートをとっていることには理由があります。


北中村より90度折れる道は勝木川の谷を下り海岸線に出ます。逆から見れば勝木川を遡って北中村で90度折れて南進していることになります。


カシミール3D+10mメッシュ標高データより
大毎峠は蒲萄峠の手前に位置する小さな分水界ですが、峠の標高に対してずっと難所であった蒲萄越えの北の入口として位置していました。



花袋の記述に興味深い一文があります。

湯温海で宿の主人に蒲萄峠の話を持ち出しているのですが、

花袋の『海府浦の方は』という問いかけに対して、

『あっちも通れる。何方と言へばあのほうが近いから、今ぢや海岸を通る人の方が大かんべ。唯、ちよつとのぼり下りが多いが』という返答があったことを記しています。

紀行文「葡萄峠を度る」が発表されたのが大正8年のことであり、実際に訪れているのはその以前なのですが、この時点(大正期)ではすでに蒲萄越えのルートよりも海府浜通りの利用者が多かったことになります。

海岸ルートに関しては明治中期以降の海上交通が相当発展していたことや、海府浜通りには大正時代に現在の道にルーツを持つ初期の隧道がほぼ開鑿されていたこと等が挙げられます。

実際に勝木を基点として村上町までは海府浜通りのほうが蒲萄峠の新道経由より10km近くは短かったこともあり(浜通りルートは現在の道も迂回が少ないため当時とほぼ同距離で変わらない)、通しで蒲萄峠を越えて移動する需要がさほどでも無かったのでしょう。

新潟酒田航路度津丸の運行も4月から11月までであり冬季の海上交通は時化のため運休でしたが、蒲萄峠も冬季降雪による交通遮断があったことから積雪の心配のない海府浜通りは南北の交通路として機能していたことになります。

大正9年の国道指定以降蒲萄越えの荷車新道は大正国道10号としてその後改良されることになりますが、物流そのものは大正13年開通の羽越線にとって代わります。昭和30年代の一級国道7号改良(昭和41年開通)によって再び蒲萄峠ルートは現在の自動車交通化に対応した道路となりますが、一方の海府浜通りは、自動車通行可能な道になったのが昭和44年、現在の道路事情になったのが平成2年頃です。

羽越線は海岸線に並行、幹線国道である7号は蒲萄峠ルートという南北交通が並行せず異なったルートを辿っていることを説明することは、蒲萄山塊を挟んで東西両端に於ける人・馬・舟・鉄道・自動車という交通手段が地形的条件を絡め近代の歴史の中でどう関わって来たかを知る必要があります。


第五部大毎峠篇了

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蒲萄峠を渡る 第五部 大毎峠篇 その十ニ 北中村より国道を進む

一連の蒲萄越えは、北中村が入口であり出口である重要な宿として位置しました。


大正11年発行1/200,000地勢図「村上」
蒲萄峠・大毎峠を越えた国道(大正国道10号)は北中で左(西)に折れ、勝木川を下るルートを取ります。北進する雨坂(あまさか)峠越えが出羽街道庄内通の本道。この先近世の関所である念珠ノ関(鼠ヶ関)が成立するまで庄内藩鶴岡城下までの街道筋はいくつかのルートが存在しています。
大毎村がこの時代の地勢図では国道筋(明治新道)ではなかったことも反映されています。


街道の分岐。左が明治新道(国道)、右が出羽街道庄内通の旧街道。


県道の繋がりということでしょうか、消雪パイプが旧街道の筋で伸びていました。


三又の北中バス停。


その袂には、交通の分岐点でもあることから道路元標が現存しています。


旧街道の筋はここから幾多の峠越えをするものでした。
※この先の出羽街道については範囲外であるため詳細は取り上げないものとします。


三又を左(西)に折れ、国道を進みます。


その先で昭和41年開通のバイパス路と接続します。


出羽街道筋の間道であった勝木川を下る国道。江戸時代後半にはむしろ本道的な扱いであり明治新道の荷車道ルートとして選択され、大正国道10号、現在の一般国道7号として、事業中である「日本海沿岸東北自動車道に並行する一般国道7号朝日温海道路」のルートも同じ筋を辿ることになります。


その十三 考察篇へ

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蒲萄峠を渡る 第五部 大毎峠篇 その十一 街道と道路の分岐点・宿場としての北中村

大毎村より明治新道のルート・現在の7号で下り、中心集落であり街道の宿場・分岐点として旧黒川俣村(勝木川の上流部を黒川という)の役場が置かれた北中村へたどり着きます。


現7号はここから左(西)へ90°曲り、勝木川を下るルートを取ります。


北中村は宿場ということもあって、村中を通る街道筋がそのまま明治新道・旧国道となりました。


「栄寿橋」と名付けられた橋。明治新道として開削された道筋に架けられたようです。旧出羽街道庄内通が大毎の村で右岸へ越えた大毎川を、道路は村の入口で渡ることになります。


「一級国道7号線」の銘板が残っていました。


竣功は昭和39年3月。現在のバイパスルートが開通する以前、法改正で国道の一級二級という区別が無くなる直前だったようです。


村中は宿場らしく、短いながらも幅広で直線の道が通ります。


そしてY字の分岐。旧街道と明治新道(国道)とを分かつ点です。


昭和44年発行1/50,000「勝木」より
北進する旧街道、左へ折れて西進する国道。江戸時代も後半になると、むしろ間道という扱いであった勝木川を下る筋(現在の国道ルート)が専ら利用されていたようです。

その十二へ

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