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第一渡辺文録

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カテゴリー「勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 第一部 八幡山篇」の記事一覧

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勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 第一部 八幡山篇 その八 碁石地内の増線用地

昭和55年の国鉄再建法に絡んで複線化が凍結となった碁石地内ですが、着工に至らなかった用地についてはそのまま国鉄からJRに引き継がれた状態で残されています。


碁石側のほうが2mほど標高が低い(5mほど)ため、現行線(昭和22年以降の新線)は八幡山隧道を越えた先が盛土構造となっています。


その東側に未成の新八幡山隧道北側碁石口。もし完成していたとすればこの場所にも盛土されていたのでしょうか。


JRの所有地として上り線となる複線化用地は現存します。盛土となる計画だったのか、単線ですが用地の幅がやや広いようです。


現行線(昭和22年以前の路盤との合流地点手前)は山を削って鉄路を通していますか、複線化の際に上り線となる路線は隧道を以てこの先で合流となったのでしょう。

 
カシミール3D+地理院地図に加筆

新線の八幡山隧道(168m)に比べ延長の長い287mの新八幡山隧道。地形図上ではちょうど山地の凸部に出口がくるように設定されたようです。結果着工とはならなかったようですが、その先集落を横断する形で碁石川の谷を越え、神社のある山部をもう一本の隧道で抜ける計画であったようです。


第二部 大崎山篇へ

勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 第一部 八幡山篇 その一へ戻る


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勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 第一部 八幡山篇 その七 羽越線複線化事業の結果・未使用の新八幡山隧道

昭和40年に決定した羽越線輸送増強による複線化は、結果として全線複線化することなく国鉄再建法(昭和55年)の絡みで途中で中断され、単線と複線部が入り混じって現在に至っています。
結論からすれば現在の信号システムや輸送量からみればこれ以上の複線化は必要ない、が答えとなっていますが、決定後早期に着工が出来た箇所は順次複線化されており、遅かった箇所が取り残された格好となっています。

単線であった勝木-府屋間も複線化の対象になっているのですが、複雑な要因(国道の改良が絡む※後述)こともあって着工が遅かったのか、現在も単線運用であり複線化に取り残された区間です。


勝木駅の北側、現行の羽越線八幡山隧道の東隣にもう一つの隧道が見えます。これが本来羽越線の複線化で上り線となる予定であった新八幡山(実際には新新八幡山)隧道です。着工されほぼ完成しているのですが、レールが敷かれることなく約30年そのままの状態で「未成」のまま存在しています。


昭和55年に完成した一般国道345号勝木バイパス「勝木跨線橋」は、現行線の列車交換施設である駅構内と将来の複線化による用地の部分を渡るように鋼鉄製の桁が渡されています。


跨線橋部と隧道の覆道部の位置関係。鉄道と道路が被らないような立地の仕方でしょうか。


コンクリート製の未成隧道には柵が設けられ内部にはもちろん入れません。未使用のまま30年以上経過しています。


新八幡山 287M


昭和52年国土地理院国土画像情報オルソ化空中写真より。

この当時はまだ複線化へ向けての着工はされていません。
新八幡山隧道の竣功は一般国道345号勝木バイパス勝木跨線橋の竣功と同時期です。隧道そのものは完成しましたがその先の竣功が国鉄再建法以前に間に合わず工事凍結となったのでしょうか。

その八へ

勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 その一へ戻る



勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 第一部 八幡山篇 その六 現行線の八幡山隧道について

八幡山の新線切り替えについての解説が述べられた書籍があります。

「越後の停車場」(朝日新聞新潟支局編・1981年)に以下の記述が載っています。

ここから引用

"戦争が激化して日本海側の輸送増強に迫られた時、最大のネックになったのが旧トンネル。長い貨物列車だと、トンネルが邪魔になり列車交換が出来なかった。そこで計画されたのが駅ホームから直線で結ばれる新しいトンネルの掘削だった。

昭和十八年の着工だが、戦争中のこと、資材、人員もままならない。それに羽越線工事でも難航の原因になった風化性の土質。工事は原始的な「手掘り」方式だった。
この土運びに民間人が動員された。村上の県立旧制村上中学校はじめ近隣の青年学校の生徒、それに軍需工場などにいっていない各地の商店主など。「このトンネルが完成すれば勝利の日は近い」のかけ声でシャベルを握り、モッコを担ぎ、トロッコを押した。

結局終戦までには完成せず、開通したのは戦後の二十二年。延長百六十八メートル(複線部分五十ニメートル)の新トンネルは戦後の復興に役立った"

引用終わり


勝木口より見える昭和22年完成の「新」八幡山隧道はブロックを用いないコンクリート製。
ここだけが新しい理由が存在しました。

※同様に太平洋戦時中の羽越線増強で開設されたものに今川信号所があります(後日取り上げます)



当初の鉄路の路盤。道路とならなかった箇所も平坦な叢がその筋を残しています。


その後もう一度羽越線の輸送力増強が検討される機会があります。昭和40年に決定した羽越線複線化です。

その七へ

勝木-府屋町を巡る大崎山越えの交通史 その一へ戻る




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