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第一渡辺文録

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カテゴリー「蒲萄峠を渡る 第一部 長坂峠篇」の記事一覧

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蒲萄峠を渡る その十二 今の長坂峠

現在の長坂峠は「蒲萄トンネル」によって直接蒲萄の村中へと繋がります。

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昭和41年に開通となった一級国道7号改良によるトンネル。大須戸(南側)の口には扁額が取り付けられなかったようです。この上部を明治新道長坂峠は越えています。

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昭和40年代のトンネル。幅員は最小限の6.5m程でしょうか。あまり徒歩による移動は無いのでしょう。蒲萄の田畑が大須戸側には無いことに起因するものでしょうか。

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すぐに蒲萄の村へと入ります。かつての出羽街道(庄内通り)の宿場として機能した蒲萄宿。現在の一般国道7号もほぼ同じように村中を通るものとなりました。

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蒲萄口のトンネル入口には「蒲萄トンネル」の扁額があります。

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その西側には旧街道の長坂峠に繋がる小道が続きます。
※旧街道についてはまた改めて取り上げたいと思います。

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「昭和39年 建設省」の杭がありました。

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トンネルを出てすぐ東側に、明治新道へとつながる道があります。
長坂峠の新道が利用されていた時代はこの上部にある合流点から谷を降りて蒲萄の村へと道は繋がっていました。

昭和41年に蒲萄トンネルが開通してからは、旧街道の長坂峠も新道の長坂峠も全くといっていいほど利用はされなくなっています。その理由の一つとして農地という土地利用があげられるでしょう。蒲萄の村にとっての生活とかかわる田畑の場所は旧街道入口付近の一部を除いて長坂峠の筋にはありません。また、南側の大須戸側にとっては、三面川水系の沖積地が広がることからも峠付近にまで田畑を広げる必要はなかったことと考えられます。
かつては「塩野町村」として同一の自治体であった蒲萄と大須戸の村ではありますが、長坂峠を境に文化や言語の微妙な差異が認められるそうです。

ほんのわずかな廃道区間のある明治新道・長坂峠。現在の道(蒲萄トンネル)が存在すれば良いという背景にはムラの生活に係わる舞台(田畑)の絡みがありそうです。ここに明治新道の開鑿されていった場所の特徴の一つが顕れているのではないでしょうか。

かつては橘南谿が苦心してようやく越えた長坂峠。明治新道となってからは花袋は難儀なく越え、現在では一本の短いトンネルであっさりと抜けられるものとなっています。


蒲萄峠を渡る 第一部長坂峠篇 了
第二部 蒲萄峠篇に続きます。

蒲萄峠を渡る 第一部長坂峠篇 その一へ


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蒲萄峠を渡る その十一 蒲萄峠へと続く道

明治新道・長坂峠の頂点を過ぎ、蒲萄川水系の谷・蒲萄の村へと向かいましょう。

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積雪によって根を曲げられた低木。その先にはもう植生の姿は見えません。峠を過ぎると道の姿が再度現れます。

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轍の跡がありました。荒れてはいますが「道路」の姿そのものです。ここまで自動車が定期的に入っているのでしょう。

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現役の電力線。長坂峠の新道には電力線保守の為に人の手が入っており、ほんのわずかな峠の区間のみが廃道となっていたようです。

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もうここまで来ると林道となんら変わりありません。両脇には人工林の杉が植林されている風景が続きます。

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蒲萄山塊と蒲萄川の谷。この眼下に現一般国道7号が通り、その谷筋を上る旧出羽街道長坂峠の存在もあります。

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谷の中腹を回り込むように下っていきます。杉林が続く一方で田畑はここには無いことが確認できます。明治時代に開鑿された新道はこのような場所を緩やかに進むものでした。

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そして舗装された道路と合流します。ここから右(東)へ進む方が蒲萄峠、左(西)へ向かい谷を下ると蒲萄の村、さらに蒲萄川を下って越沢・寒川へと進み、海府浜通りへと繋がる道となります。



旧街道の時代には蒲萄の村を直接経由して蒲萄峠へと向かうものでしたが、明治時代に開鑿された新道は蒲萄の村を経由せず直接蒲萄峠へと向かうものです。村の東側には緩斜面の水田が広がっています。その上段を新道は進んでいました。

その十二へ

蒲萄峠を渡る その一へ戻る

蒲萄峠を渡る その十 長坂峠新道のサミット

明治26年頃に新たに「明治新道」として開鑿された長坂峠の新道。そのサミットは現在では全くの廃道と化しています。昭和41年に現在の一般国道7号蒲萄トンネルが供用されて以降、かつての新道の峠サミット部はそのままの状態で残されていました。

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かつての路面には低木の樹木が育ち、倒木の姿もそのままとなっています。

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ここから切り通しで開鑿された峠のサミット部となります。

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直線で造成された切り通し部が確認できます。冬季には積雪が2~3mとなることから、積雪で倒木した姿が邪魔をしていますが、紛れもなく道路の姿を見て取れます。左側の奥には比較的新しめの電柱がありました。

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路面が植生で荒れていたのはほんの僅かな部分でした。電柱の保守などもあり人が定期的に入っているのでしょう。明治大正昭和と利用された新道・旧国道の路面はしっかりと大きな浸食もなく残されています。

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何時の改修かは不明ですが石積みの法面が両脇にあります。

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何度か改修されているのでしょうか。水抜きの管の存在もありました。おそらく戦後・一級国道7号となった頃でしょうか。石積みそのものはもっと前から存在していたのでしょう。菱形の石材が並んでいます。

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新道・長坂峠のサミットはここまでです。廃道とはいえ、現在も電力線・電話線等が峠を跨いでいるようです。
しかしながら廃道となった経緯は、この新道の沿いに全く田畑が無いことにあります。つまりムラの生活そのものには関連していない道と見ることができます。そのために、この長坂峠の新道のみが廃止後全く利用されている形跡が無い、という考察ができるのではないでしょうか。実際旧街道の長坂峠周辺には蒲萄村の田畑の存在が地形図からも確認することができます。

この先すぐに蒲萄の村へと入るのですが、直接繋がっているわけではありません。ここに荷車道としての明治新道・蒲萄越えの特徴が表れています。

その十一へ

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