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第一渡辺文録

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カテゴリー「大正浦隧道という名称が付いている小鳥越の洞門」の記事一覧

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大正浦隧道という名称が付いている小鳥越の洞門 その四

「大正浦隧道」という名称をもう一度見かけることになったのは、
WEB同人誌『日本の廃道』の企画で明治隧道projectという連載を読んだ時でした。

昭和4年に刊行された『明治工業史・土木篇』によれば、


『道路の隧道中、德川時代に開鑿したるものにして、現存するものは、僅かに六箇所なり。

(中略)

一、新潟縣大正浦隧道 長十九間二分 安政五年(西暦一八五八年)竣功』


ここに「大正浦」という名称が出てきます。
十九間二分≒34mという長は、前述の全国トンネルリストに記載されている大正浦隧道の延長、現存している小鳥越洞門とほぼ同じであることから同一のものと考えて良いでしょう。


ところが、これだけ資料が残っていて後世にも伝えられている洞門の肝心の名称が所謂専門書にしか無いのは何故でしょう。ここから考えられることは、「大正浦」という名称では呼ばれていなかった、という推測にたどり着きます。

現在の一般国道345号に当たる越後海府浦の浜通りが新潟縣道に指定されたのが大正12年のことです。(当時の路線名は新潟縣道府屋瀬波線)
つまりこの時点で台帳上に大正浦隧道という名称が付けられた、と考えることができるかもしれません。本来であれば「小鳥越隧道」若しくは「十五里峠隧道」、※「馬下隧道」という名称が付けられていてもおかしくはないのですが、結果として大正浦隧道となり、昭和41年度に改修された後も扁額が取り付けられることなく平成元年に廃止された、ということになります。

※注 昭和62年(1987年)に南側、馬下口に馬下隧道が一般国道345号改良で新設される

大正時代だから大正浦、というのはあまりにも安直ではありますが、どこにも大正浦という地名が出てこないことを考えるとそう推測してみたくなるものです。

P1040542.JPG
名称が何であれ先人の尽力によって道が切り開かれた、という歴史には変わりありません。
かつての難所には「馬下大橋」という海上橋梁が新たに架橋され、その脇に現在も「小鳥越の洞門」は残されています。

P1040551.JPG
小鳥越の洞門(大正浦隧道)
安政五年あたりに竣功、昭和41年度に改修、昭和50年に一般国道345号として指定、平成元年廃止

海府浜通り・新保~馬下間の小鳥越えの先、十五里峠にあたる場所に、新保村の仏照寺住職大哲和尚と早川村の早川寺住職洞水和尚の尽力によって開鑿さる。

本当の地名は何なのでしょうか。そして大正浦という名の所以は如何に。

(了)

大正浦隧道という名称が付いている小鳥越の洞門 その一へ


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大正浦隧道という名称が付いている小鳥越の洞門 その三

村上市史及び山北町史に以下の記載があります。


『海岸路線でいちばんの難所は、馬下村-新保村の境にある鳥越山であり、そこを越えることを「大鳥越え」と称してすこぶる危険な場所とされた。したがって、旅人はここを避けて「十五里峠」を通ったが、ここもまた道遠く険阻であったので難渋した。
ところが、新保村の仏照寺住職大哲和尚と早川村の早川寺住職洞水和尚が、人びとのこの難儀を救おうとして、塩野町代官所へ願い出て、郡内有志の寄進を募り、苦心の末、隧道を堀り、危険な場所には足掛りを付けた。高さ二・五メートル、幅二メートル、長さ約七十メートルの原始的な隧道ではあったが、完成したときの人びとの喜びは非常に大きかった。文字通り鑿一挺の仕事で、嘉永三年(一八五〇)に起工し、翌年に完成したが、工費は当時の金で三百両であったという』 (原文まま)


江戸時代に和尚さんが鑿仕事で掘った、という話ですが、肝心の名称については触れられていません。


さらに古い資料として山北村郷土誌及び山北町郷土史研究会『部落の由来を訪ねて』には


『浜新保は交通の要所とされ、村上へ出る時や旅に出る時は、必ずこの道を通った。府屋の人は朝二時起きして来たといわれていた。
ところが、小島越から十五里峠に差しかかるところは極めて険しく、この里切っての難所とされ、ここで怪我をする人びとが跡を絶たず、これを目のあたりに見た仏照寺十世住職、宣方大哲和尚がここに同門をつくって、道行く緒人の安全を図ろうと発願した。
時、八三九年、先づ近郷近在に托鉢しては寄進を求め、タガネ堀りで艱難苦難を続けた。これを見た人びとの中には、あるいは人夫として、あるいは米や金を寄進して応援した。
七難苦闘も七年かかって漸く実を結び、幅二間、高さ九尺、長さ五間余りが完成した。 このトンネルは大正十二年まで通り、数多くの人びとから親しまれた。
宣方(センボウ)和尚は、発願して以来托鉢で得た財宝や寄進した人々の名、人夫として働いた人々の名を一人残らず記載した。半紙で厚さ四寸もあったという。
大正十二年羽越本線が全通して、このままこの道路を県道として認定編入された。当時、県は、土木工事史を編さんし、その内容をのせ長く善行を後世に伝えている。今、新潟図書館に残されているが、元本は昭和十九年、落雷のため本堂が全焼して悔しくも鳥有に帰した』 (原文まま)

ここでも肝心の名称は出てきません。鳥越山の位置から、おそらく小鳥越と呼ばれる場所であることは間違いありません。


また、昭和12年に発行された『岩樟舟夜話』には、


『上海府から下海府浜新保に通ずる山道を、十五里峠といっています。一方は山で、あまり高くはありませんが、けわしく、西は断がい絶壁で、とうてい、人の通り得られる所ではありませんでした。
雄波・雌波のすきを見さだめては、いちもくさんに走るという、きわめて危険な通路で、人びとの困難は、とてもいいようのない所でした。それが、新保の仏 照寺の大哲和尚と、早川の早川寺の洞水和尚とが、仏心によって、人びとの難儀を救おうと、特志寄付をつのり、いろいろと苦心さんたんして、いわゆる洞門を きり開いたのです。
長さ約二百(約六〇メートル)、高さ九尺、幅八尺に足りない、四角な穴ずい道ですが、ただ一ちょうのたがねで、まい日、コツコツ、コツコツと掘っていったもので、その苦心は、想像もできないほどのものだったと思われます』 (原文まま)


長さ寸法や年代などがバラバラではありますが、どうやら小鳥越えと山越え道の十五里峠の場所にこの洞門が掘られたようです。

果たして「大正浦」とは何を指すのでしょうか。


その四へ

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大正浦隧道という名称が付いている小鳥越の洞門 その二

「道路トンネル大鑑」(土木通信社)の昭和42年度全国トンネルリストという資料を目にした時に、馬下に「大正浦」という聞いた事の無い名称がありました。
どうやらこれが小鳥越の洞門らしい。ところで「大正浦」という名はどこから来ているのか。
実は「大正浦」という名称に関連する地名等が無い(のかもしれない)。
この洞門に関する資料を探してみたのですが、肝心の名称に触れたものはありません。




この資料は昭和53年に初版が発行された新潟県岩船郡山北町(当時)教育研究協議会社会科資料作成委員会による「わたしたちの山北町」という教材の一コマで、

『浜新保と馬下のおしょうさんがノミとタガネで作ったトンネルを利用してでき上がった桑川-馬下間の345号線は、昔は人一人が通れるだけの道でした』

という解説が付記されています。やや回りくどい表現ですが、「大正浦」という名称らしいトンネルは前述の道路トンネル大鑑に拠れば昭和41年度の竣功とされています。つまり上の写真の姿になったのが昭和41年度、ということで、それ以前は、「浜新保と馬下のおしょうさんがノミとタガネで作ったトンネル」は「昔は人一人が通れるだけの道でした」ということになります。

では何時、どのような経緯でその道は作られたのでしょう。

その三へ

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