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第一渡辺文録

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カテゴリー「タカヘツリをゆく」の記事一覧

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タカヘツリをゆく その六 国道としてのタカヘツリ

次郎吉の功績を称賛した碑のある鵜泊の崎にはもう一つの記念碑があります。
昭和50年に一般国道345号として昇格した際に建立された碑です。
787eb900.jpg
ここにも菅原次郎吉の功績を讃えた文章が刻まれています。


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自衛隊建設大隊の尽力によって開鑿された車道は、その後の国道昇格及び部分改良によってかつての難所の面影を見せる場所は少なくなりました。

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元は幅2尺程度のヘツリ道が5mの車道となり、現在は6.5m+歩道付きの一般的な国道規格で道を通しています。

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今のタカヘツリは、1995年に竣功した屏風岩の入り江を跨ぐ鵜泊大橋によって、緩やかなカーブと直線的な国道として道を通しています。

かつては道なき山越え・ヘツリであった街道。その道を利用する人は限られたもので、舟にによる海上交通が主であった時代に近隣の村人の為に私財を以て道を開鑿したのが、海運によって成功を収めた次郎吉翁の存在です。決して「道」とまでは呼べないヘツリ道ではありましたが、当時の村人の歓喜は計り知れないものであったといいます。
しかし本格的な道路に至るにはその後の自衛隊建設大隊による道路建設を経て昭和44年の海岸道路全通まで暫く待つこととなります。これも鉄道(羽越線)の存在が影響をしています。海府浦全域に言えることである舟→鉄道→自動車という交通の変遷。その一幕を映し出しているタカヘツリの道路改良は、唯一二車線になっていない鵜泊の崎をショートカットするトンネルの計画が残っています。「新鵜泊トンネル」という計画が一般国道345号改良の項目にあるそうですが、ここに「タカヘツリ」の名称を付けて次郎吉の偉業を後世に残すのもいいのではないでしょうか。

(了)

芦谷セット・羽越線旧線構造物の道路転用へ

タカヘツリをゆく その一へ
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タカヘツリをゆく その五 自衛隊建設大隊による道路建設

海府浜通りに相当する新潟縣道府屋瀬波線(後の新潟県道村上温海線)を構成するタカヘツリ明治道が車道化されたのが昭和31年のこととなります。
戦後新潟県が押し進めた「海岸無雪道路」(現在の一般国道345号・402号に相当)として着工された区間で、自衛隊の工事訓練(山北町史より)という名目で、防衛庁豊川駐屯地の第103建設大隊(当時)の隊員150名によって昭和31年6月30日より開始され、作業日数57日間、延べ15524人の人員、総爆薬量1717.5kg、総工費508万円を以て鵜泊~芦谷間に延長420m、幅員5mの道路を開通させたと記録されています。

(いづれも山北町村合併20周年記念事業「ねんりん」より出典)
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通称「屏風岩」の入り江にある崎。菅原次郎吉の開鑿したタカヘツリ明治道はこの上部20m程の箇所を通っています。

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ダイナマイトによる爆破の資料がありました。

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羽越線の隧道は屏風岩隧道。手前に映っているのが屏風岩と呼ばれる岩礁です。

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現在の屏風岩。羽越線はその後覆道化されていますが、どのように道路建設がされていったかの形跡が確認できます。

当時のタカヘツリの前後の道も非常に粗末なもので、建設大隊の作業にあたり重機や資材の運搬を羽越線・鵜泊隧道と寝屋隧道の間(鵜泊村内)に仮設ホームを設置して行うというものであったという記載があります。

道無き断層崖のヘツリに道を施し、その道をなぞるように昭和の道路が建設されたタカヘツリ。海府浦にとってはこの道が最初の「道路らしい道路」となりますが、自動車が実際に通行できるようになるには海岸道路が全通する昭和44年までもう13年ほど待たなくてはなりませんでした。

※このタカヘツリ昭和新道は後の一般国道7号の路線として組み込まれる予定だった、という逸話も残されていますがこの件については後日とりあげたいと思います。

その六へ

タカヘツリをゆく その一へ戻る

タカヘツリをゆく その四 ヘツリの変遷

明治30年に開鑿された通称タカヘツリの明治道。その後大正13年に羽越線が開通しますが、当時の最先端の技術で建設されていった鉄道は、いとも簡単に幾多もの隧道を以て直線的な筋を描き「タカヘツリ」を克服します。

その後自動車通行可能な「道路」の建設が昭和31年に始まりますが、当時の資料がいくつか残されています。
(昭和50年発行の山北町村合併20周年記念冊子・ねんりんより引用)
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昭和30年頃に撮影された通称「屏風岩」と呼ばれている入り江の箇所の資料ですが、中央部に次郎吉の開鑿したタカヘツリ明治道が写っています。幅二尺ほどと伝えられていますが、資料の通り「道」とは呼び難いものでした。

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これが現在の姿です。羽越線(現在は複線化され下り方面)の隧道及び覆道があって、その脇を二車線規格の道路が通っていますが、この道が昭和31年に開鑿されたタカヘツリの昭和新道となります。

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現在は入り江を跨ぐ橋梁(鵜泊大橋)によって廃道化しています。

次郎吉の築いた道のほとんどは昭和の新道によって姿を残す場所はありませんが、唯一この場所には微かに断崖の中段に「道」らしきものが確認できる場所でもあります。



昭和50年に「一般国道345号」として昇格しその後も改良を経て現在に至っていますが、文字通り「ヘツリ」であった鵜泊芦谷間のタカヘツリは昭和31年の新道開鑿まで道らしい道ではありませんでした。国策でもあった鉄道の存在・当時すでに「国道」であった内海府(蒲萄峠経由)の10号(後の7号)があったこともあり、海府浦には道らしい道が無かった時代です。戦後になってようやく少しずつ自動車が通行可能な道路として改良されていくこととなりますが、この「タカヘツリ」区間には事細かい資料がありました。昭和31年に行われた自衛隊建設大隊による開鑿です。

その五へ

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