忍者ブログ

第一渡辺文録

越後海府浦をあるいています 別館 http://watanabenumber3.blog.shinobi.jp/もどうぞ

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

勝木隧道の記憶 その五 切通し後の国道

2009年(平成21年)の撤去後、相次いで日本海沿岸東北自動車道の延伸(2011年及び2012年)が続きましたが、高さ建築限界としてボトルネックであった勝木隧道を挟む浜温海~猿沢間(41km)の高規格道整備はようやくルートが決定した段階にあり、繋がるまでにはおそらくこれから10数年の月日が必用でしょう。それまで勝木隧道(跡)は日本海側唯一の幹線国道として機能しつづけなければなりません。


国土交通省直轄の幹線一般国道として充分すぎるほどの幅員を持つ道路となりましたが、それでも大型車にとっての迂回路は13号になります。


この場所にあった国道路線番号標識は、キロポスト案内標識に変わっていました。ちょうど新潟市中央区本町交差点の7号基点より100kmの場所になります。計画中の日本海沿岸東北自動車道が延伸した場合は、これより5km程短いものとなります。(参考・白新線・羽越線経由の鉄道だと新潟駅勝木駅間は94.1km)



山側の谷筋を南北に貫く旧出羽街道とは別に、浜通りとして間道の存在であった海岸線沿いの道。江戸時代後期には、間道でありながら庄内通りとしての主街道として利用されていました。この間道を幕末の吉田松陰は東北遊説の経路として通り抜けています。嘉永5年2月のことでした。

その後、明治に入り荷車を通す「新道」の開削が成されます。明治16年、永山盛輝県令の時代に23路線の開削整備が始まりますが、山側の緩斜面が続く谷筋に開削された通称「勝木峠」が当時の新潟県道として指定されることとなりました。これが現在の国道7号の原型となります。この県道は、鼠ヶ関で山形県令(鶴岡県令)三島通庸の整備した鶴岡鼠ヶ関県道と連絡する荷車道となります。

後に大正9年指定の第拾號國道(大正國道)、昭和27年の一級国道7号路線として引き継がれますが、近代国道として7号改良をする際に、かつての街道の山越え(大崎山峠)を隧道で貫く新ルートとなり、その一部である勝木からの山越えの部分として勝木隧道は建設されました。(大崎山の山越えについては後日あらためて取り上げます)


1966年(昭和41年)に開通した舗装路2車線の国道。それから43年後に隧道は山ごと撤去となりましたが、道路の近代化という使命は充分に果たしたものと思われます。現在でこそ狭小な規格ではありますが、開通した当時の交通から見れば、明治新道勝木峠と比較しても素晴らしい国道隧道であったことには違いありません。幕末の旧街道の時代から約150年、現代までの交通の歴史の一幕を担った勝木隧道の存在をここに記しておきたいと思います。(了)



勝木隧道の記憶 その一へ戻る








PR

COMMENT

NAME
TITLE
MAIL(非公開)
URL
EMOJI
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
COMMENT
PASS(コメント編集に必須です)
SECRET
管理人のみ閲覧できます

カレンダー

11 2017/12 01
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

リンク

Twitter

最新コメント

[07/09 ひろ]

最新トラックバック

アクセス解析

共有

Copyright ©  -- 第一渡辺文録 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]