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第一渡辺文録

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蒲萄峠を渡る 明神新道篇 その五 新道の小字・マルクラ

マルクラ(丸倉)という地名が途中にあります。現在の地形図では、マルクラ沢という地名のみが残っていますが、かつてこの場所に小字としての集落があった時期がありました。
『部落の由来を訪ねて』(山北町郷土史研究会編・昭和51年)には、明治20年代の新道開削以降に馬曳の為の馬宿を新道沿いで営んでいたという記載があります。


カシミール3D+電子国土より
小さな沢ですが、マルクラの地名が記載されています。


大正5年発行五万分の一「蒲萄峠」より
水準点の手前に、家屋の地図記号がみられます。これが丸倉の字にあたるのでしょうか。大沢の本村から徒小径が新道へと続いています。


ここでマルクラ沢を渡ります。沢自体は小さなもので、橋が架かっているほどのものではありません。


コンクリート製の暗渠となっていました。これは昭和初期の改良での竣功でしょうか、コンクリートの質も古さを感じさせます。


暗渠の全景。小さな沢を跨ぐものですが、勾配を平坦にするための土盛りの厚さが特徴的に映ります。


沢を渡ると、地形図にもあるように大きな岩山の崖が聳えています。北西側を向いていることもあり、残雪が特に目立っていました。


路面の下部は丁寧なコンクリート製の法面が施行されています。マルクラ沢の暗渠と同時期の施行なのでしょうか。


地形図上では、岩山をすぎてすぐの場所に家屋があったようですが、その名残を見つけました。


曲がり角の沢筋にある水場。今もなおビニールパイプで人為的に集水さてれいる点や置かれた湯呑があることからも、生きている場所なのです。この場所が古くから水を得やすい場所=集落を立地させる条件が整った場所であったのでしょう。

 
すぐにやや開けた場所にたどり着きました。おそらくこの周辺が「丸倉」であった場所です。
『部落の由来を訪ねて』には、大正13年に羽越線が開通して以降馬宿も急速に廃れ、丸倉からも家屋が無くなったと記載があります。

大沢の村もまた、江戸期の街道整備、明治期の新道開鑿、大正期の鉄道開通と、宿場の宿命ともいうべき時代の変遷に翻弄されてきた歴史があるようです。

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