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第一渡辺文録

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松陰ノ隧道ニ想フ その六 脇川村の立地と移動

学生時代の論文で集落立地について触れたのだが、寒川村の本村が蒲萄川の谷底沖積地を後背として、段丘面に広がりを持つ農耕中心の村であるのに対して、脇川村は海岸線とほぼ平行にわずかな海成段丘面(標高5mほど)に列村形態で立地している点が異なる。
農村と漁村という対称の性格なのだが、脇川村が当初から漁村であったわけではない。

というのも、脇川村は江戸時代前期頃に現在の位置へ移動している。


(カシミール3Dにて作図加筆)

現在の集落の位置の南に「二級河川脇川」が流れているのだが、かつては河口から少し入った段丘面の平坦地に集落があった。この河川は谷底沖積地をほとんど持たないのが特徴で、流域の定住人口も0であり、段丘面含め平坦地のそのほとんどが耕地としての土地利用となっている。

現在よりもずっと戸数は少なかったとされる脇川村であるが、「西廻り航路」に代表されるように江戸時代中期以降の海上交通の発達、各地の浦との交易が始まると、交通上便利である浦・入り江を持つ現在の場所に移転しており、ここで一農村であった脇川村が一躍発展する海上交通の拠点を手に入れたのである。

寒川村は砂丘と遠浅の海浜が続き、湊としては適していなかったことも、海路交通の拠点として脇川湊が「外港」としての位置づけだったのではないだろうか。寒川村と脇川村との補完関係でもあり、その両村を結ぶのが松陰であった。


慶長2年(1597年)の瀬波郡絵図より。
「脇河村」と「かん河村」
脇川村はこの頃は現在の場所ではなく、「脇川」の流域にある段丘上に村があった時期の絵図ではないかと思われるのだが、特に海路上の交通について描かれてはいない。
松陰については山越えの道が描かれている。絵図にもあるように、ずっと寒川村のほうが大きな集落である。


その七へ

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