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第一渡辺文録

越後海府浦をあるいています 別館 http://watanabenumber3.blog.shinobi.jp/もどうぞ

   

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松陰ノ隧道ニ想フ その七 越佐汽船度津丸による酒田新潟航路の停泊

江戸時代における海運の発展により、脇川湊は脇川港として海上交通の拠点となるわけだが、明治22年の町村制に於いては下海府村の村役場所在地として行政としての拠点性も得ることとなる。

各浦々を結ぶ小廻舟の便(浦=砂浜に直接乗り上げることが可能)が中心であったが、明治18年に柏崎で創業された越佐汽船会社(現在の佐渡汽船の前身の前身のひとつ)が運行した、近代蒸気船による酒田新潟航路が交通面での重要なポイントとなっている。

明治42年の「岩舩郡案内」には脇川港の項があり、
『脇川に在り定期船度津丸の寄港地なり、下海府村を後方地域とす』

度津丸(わたつまる)とは越佐汽船が運行した蒸気船であり、第〇〇號と複数あったようで他に新潟小樽航路等にも就航している。そのうち一航路である酒田新潟便が、4月~11月に1日1往復し、途中脇川港に立ち寄る形態を取っていたようだ。
(度津とは、佐渡国一宮・度津神社から命名されたものだろうか)


かつての脇川湊は入り江の内、砂浜が広がる文字通り「浦」であったが、明治以降幾度の改修により現在に漁港として至る。


港の入口にある岩礁は波浪を遮るのに適した良い位置にある。この場所に最初の防波堤が明治25年、金80円で完成という記録が残っている。

度津丸の寄港(実際には湊からは艀で停泊している度津丸に乗りこむ)は明治34年から開始されたとあるのだが、度津丸を停泊させるのに港湾や道の改修をしたのか、度津丸が停泊するようになって、港への道の改修がなされたのかは正確な記録にたどり着けていない。
度津丸についての記録は乏しく、具体的な事があまりわかっていないのが現状で、大正13年の羽越線開通によって沿岸の海運が急速に廃れたという事だけが記されている。(海上交通に関する事については後日課題としたい)

この度津丸の記録によって推測できることは、松陰の隧道はおそらく明治30年前後から存在するのではないか、ということだ。勿論もっと古いもの(明治初期・江戸時代・幕末)であった可能性もある。


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