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第一渡辺文録

越後海府浦をあるいています 別館 http://watanabenumber3.blog.shinobi.jp/もどうぞ

   

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海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その二 道路としての歴史

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現在の海府浜通り・一般国道345号(カシミール3Dにて作成)

海府浜通りの道が「車輪の付いた乗り物を通す道路」として歴史を刻んだのが明治30年前後の事となります。古代より海上交通が発達していた海府浦でも、明治期に入るとそれまでの和船から近代的蒸気船の貨客船が寄港するようになりました。有名なものでは、越佐汽船会社(現在の佐渡汽船の前身のひとつにあたる)による新潟酒田航路がありました。その中で寝屋、脇川、柏尾が主な停舩場として利用された記録があり、同時に近隣の道に隧道を開鑿し、港と近隣集落とを結ぶ「道路」が敷設されていったようです。まだ「縣道」として指定をされた時代ではなく、具体的な記録には残されていないものですが、おそらく村単位の事業だけではなく有力者の資金による開削もあったのでしょう。似た例でほぼ同時期にタカヘツリの開削があります。
※明治の隧道については各々別の機会に取り上げたいと思います。

次の時代、大正期に入るとようやく現在の道路、一般国道345号の原型が造られることになります。今回の項で取り上げるのがこの大正期の道路の事になります。前頁で取り上げた十本の隧道の他にも、あと七本、計十七本の隧道がほんの数年(大正2年~6年)の間に開削されている記録がありました。この隧道がどのような経緯で開鑿されていったかは今のところ定かではありません。山越え道を平坦な陸路にするという目的で開鑿されたものですが、これらについてはほぼ人道隧道であったことが寸法の記録から読み取れます。高さ1.7m,幅員1mに満たないものが殆どであったといい、荷車を通した規格であった明治期に港とを結んだ隧道とは大きく異なるものでした。
この頃には羽越線の建設が決定していますが、先に道路の方が開通しているため全般的に山側のルートを通っています。当時でいう最先端の技術で建設されたものといい、鉄道特有の直線的な線が貫き現在に至っています。

大正13年に開通した羽越線と同様に、海岸線ぎりぎりの場所に開通した道路も、現在に至るまで殆ど同じ場所にあり、大きくショートカットを図った新設バイパスが無いことが特徴となります。
大正12年に初めて「新潟縣道府屋瀬波線」として指定された後、昭和50年の一般国道345号に昇格するまで一度だけ大きな改良を受けていますが、これが「海岸無雪道路」と呼ばれた計画の事で、昭和35年頃より新潟県によって計画された海岸線伝いの路線として海府浜通りの道が指定されました。

その直後、昭和39年(1964)に直ぐ近隣の粟島付近を震源とする新潟地震が発生します。大きな被害は無かったものの、道路の補修復興の目的もあったのでしょう、ようやく昭和44年に自動車の通行可能な道路が開通することとなりました。昭和39年から44年までの間に大きな改修を受けていることになります。つまり昭和44年までは殆ど改良されることなく大正期の道が存在していた、ということにもなります。それからは早く、国道昇格を挟んで現在のコンクリート巻き2車線の道路として二次改良を受けています。

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板貝の浜と護岸を挟んで現在の国道。この先に見える神宮沢第一隧道からが大正期の道となります。それではここから先へ進みます。

その三へ

海府の浦を繋ぐ道~深浦・恵比寿浦~ その一へ戻る
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