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第一渡辺文録

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蒲萄峠を渡る 蒲萄峠篇その十一 考察

明治時代に開鑿された新道で(狭義での)蒲萄峠を越えてきましたが、碧梧桐や花袋にもあるように「だらだらで平坦な」道の続く峠道となっています。


カシミール3Dにて作成

青線で描いたものが旧街道である出羽街道・庄内通り、赤線が明治新道・後の大正国道10号・一級国道7号の路線です。

旧街道は、宿場でもある蒲萄の村の中を通り、途中から峠に向かって登るような経路を取っているのに対して、明治新道の荷車道は蒲萄川の谷には下りず、長坂峠から山裾をそのまま進んで蒲萄峠に向かう経路であることが特徴となっています。

明治25年に開通した新道ですが、荷車道として開削されていった道であることから、いかに峠の高低差を少なく平坦なものにするかという点が重要だったのでしょう。その為に、蒲萄の村を直接介さずに長坂峠~蒲萄峠という一連の峠越えになる道が施されていったのだと思われます。
峠部にあたる場所は、そのまま旧街道の道筋を改良し荷車道化できたことも、街道筋が最初から急勾配にならない場所を通っていたことにも起因するのでしょうか。それまでの道を利用できる場所は利用し、都合の悪い場所は新たに道を開鑿する。そのような方法で明治時代の新道は全国的に張り巡らされていったのでしょう。蒲萄峠もその一例なのだと思われます。

新道として開通した峠道。その後は同じ場所を「自動車道」として国道指定されます。大正9年指定の国道10号、昭和27年指定の一級国道7号として、現在の7号のルートが昭和41年に開通するまでほぼ唯一の車道として機能していました。最初から荷車道としての規格があった道は、自動車を通すのには十分なものであったということです。実際対象国道として指定された大正9年には、蒲萄峠を通行する乗り合い自動車の運行が始まった記録が残っています。

長らく車道として通った新道も、昭和30年代後半に計画された一級国道改良によって、再び蒲萄の村中を通るルートになっています。かつての旧街道の道筋に戻っていることが興味深い点ではあります。
この改良ルート(村上勝木間)の選定が3種類あったとされ、現345号に沿う海側ルート、蒲萄の村から蒲萄川を下り寒川へ出るルート、現在の7号のルートと計画されていました。結果的に現ルートになっていますが、当初の計画は蒲萄川を下るルートであったそうです。(この件は改めてまとめたいと思います)

2012年になって、日本海沿岸東北自動車道のルートが決定しましたが、現在の7号とほぼ平行するものになりました。おそらく一連の蒲萄越えは長大トンネルで通過することになると思われますが、蒲萄の村に係わる街道筋の歴史として、宿場から始まり、村を通過しない新道、村を通過する国道、村を迂回する高規格道と時代によって道に翻弄されてきた歴史が続いているのではないでしょうか。



時代によって道の変遷が続く蒲萄の村。街道筋の宿命なのかもしれません。

蒲萄峠を渡る 第三部 明神新道篇に続く

蒲萄峠を渡る 第二部蒲萄峠篇その一へ
蒲萄峠を渡る 第一部長坂峠篇へ




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